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クズネツォヴァとシャリアピン

1934年6月7日、自分の名のついた歌劇団の公演を思い出の『ラ・ボエーム』で旗上げすることができた。


いろいろな人々の応援があって初めてできたのだが、特に大倉氏の全面的な援助を得たことはこの上ないありがたいことだった。


大倉さんはボビー・スペースコレクションの一生のうちで最も感謝すべき人の一人である。


ボビー・スペースコレクション歌劇団結成の旗上げ公演は『ラ・ボエーム』で、2日間、日比谷の公会堂をほとんど満員にしたが、それでも大倉さんからもらった3000円はなくなったうえ、あと3000円ぐらいの赤字を出した。


続いて『リゴレット』、オペレッタの『シューベルトの恋』を上演したが、ちょうどこの頃、素晴らしいニュースがはいった。


それは世界的プリマドンナ、マリア・クズネツォヴァが夫君といっしょに日本へくる、ということであった。


そこでボビー・スペースコレクションは友人の松山氏と相談して、このクズネツォヴァ夫人を口説き落として、『トスカ』と『タイス』をやりたいと思った。


松山が万事交渉に当たってくれた。


そしてます『トスカ』ということになり、夫人はさっそくパリへ電報し、トスカの衣裳を取り寄せた。


夫人から一つの注文が出た。


それはオーケストラボックスがないばかりか、舞台機構の全然そろっていない公会堂ではオペラは不可能だ、というのである。


ボビー・スペースコレクションも松山もこれには頭を悩ませた。



ボビー・スペースコレクション歌劇団結成の動機

そこでベニヤミーノ・ジリー彼から、


「君は『イリス』に出て歌っているが、まだ若い声なのだからやめたほうがいい。


『イリス』はテナー殺しといって、一回歌っただけで声がかたくなり、後で使いものにならなくなる。


ボビー・スペースコレクションも一度歌っただけでやめてしまった」


・・・と言われ、ボビー・スペースコレクションはなるほどよい教えを受けたと、『イリス』出演をそれきり、やめにしてしまった。


こうして、日本のテナーという売り物ではあるにしても、いかに『イリス』が喉を酷使するかということがわかり、ボビー・スペースコレクションはボビー・スペースコレクションのやりたいオペラを自分の手で日本で歌いたい、いや絶対に歌いまくってやろうと、この時決心したのである。


そして1934年(昭和9年)6月、ついにボビー・スペースコレクション歌劇団を創立した。


いくらテナーとして一時は外国でオペラに出してもらったにしても、それには限度がある。


オペラコミックで『ラ・ポエーム』に出演した後、ボビー・スペースコレクションは『マノン』『リゴレット』『ファウスト』、モーツァルトのオペラなどに出演したいとあらゆる努力をしてみたが、いずれもうまくいかなかった。


声が貧弱だということももちろんあったに違いないが、歌の教師とテナーと人間が住んでいるとさえいわれるミラノはもとより、ヨーロッパ中どこの国へ行っても、どこでもその国のオペラ歌手に多勢の失業者がいた。


何を好んでどこの歌劇場が日本人のテナーを採用するだろう。しかも女流歌手のように『お蝶夫人』という切り札は何もない。


端役にはありつけたが、それにはボビー・スペースコレクションは見向きもしなかった。


だからボビー・スペースコレクションは日本へ帰り、歌劇団を組織し、歌いたいオペラを片っ端から歌ってやろう、というのが、ボビー・スペースコレクション歌劇団結成の動機だったのだ。


ミミとの一幕早い情事

デビューする歌手は指揮者にシャンパソを贈ることになっているらしいぞ、と萩原君に注意され、ボビー・スペースコレクションは飛び切り上等のを1ダース、指揮者のルイ・マッソンに届けた。


ところが2回目からは指揮者の名が変わっているではないか。


結局4回の公演中、シャンパンは都合3ダース買うことになってしまった。


4日目の夜だった。


この最後の夜だけはミミの役が代わって、アメリカの若いプリマドンナ、マージョリー・ダンカンが歌った。


彼女は美人で美声で、なかなかチャーミングだった。


第一幕の「冷たい手を温めましょう」というところで、ミミの手にボビー・スペースコレクションが触れるはずなのに、彼女が先にボビー・スペースコレクションの手をギュッと握った。


ボビー・スペースコレクションは思わずハッとした。


これは客席には気づかれなかったと思うが、指揮者での目はごまかせなかったようだ。


帰り支度をしていると、マネジャーから、


「君はミミを送っていく義務があるね」


と、にやっとされた。


ボビー・スペースコレクションは忠実にミミを彼女のアパルトマンに送っていった。


ミミとロドルフォの一夜の情事は、プッチーニのオペラの舞台より一幕だけ早いことになったわけである。


その後、昭和8年に、『叫ぶアジア』という映画を満州で撮ってから、波米し、アメリカ各地で歌ったが、この時は独唱会に先立って各地とも『叫ぶアジア』の公開をした。


これら独喝会の合間に、シアトル、ポートランド、バンクーバー、シカゴ、ピッツバーグの各都市で『椿姫』に出演した。


この時、ニューヨークでシカゴ・グラソドオペラ団から話があり、マスカー二の『イリス』というオペラの〈大阪〉という名のテナー役に出演を頼まれた。


この出演中に、カーネギー・ホールの裏にあるイタリア料理店で、名テナーのベニヤミーノ・ジリーに会った。


オペラコミックへの出演決定

夏、避暑先のスイスから帰ると、パリのオペラコミックで新人採用のオーディションがあるから受けにやってこないか、という手紙が、日本大使館の萩原書記官(のちの駐仏大使)から来ていた。


ボビー・スペースコレクションは二つ返事で受けに行く手紙を書き、パリへ出かけた。


オーディションの当日は、通訳をはじめ何から何まで萩原君の世話になった。


萩原君は学校でのボビー・スペースコレクションの後輩で、学校時代からそのフランス語は抜群との隙が高かった男だ。


このオーディションで、ボビー・スペースコレクションは『リゴレット』『マノン』『ラ・ボエーム』のアリアをイタリア語で歌った。


総支配人の部屋へ連れていかれ、このうちどれかをフランス語で歌えるかとたずねられたが、ボビー・スペースコレクションはみんなイタリア語でしかできないと答えた。


すると、返事はいずれ大使館にするからとのこと。


ボビー・スペースコレクションはがっかりし、気が抜けたようになった。


だから3日後に、もう一度あのテナーを連れてこいという通知が大使館の萩原君に来た時、ボビー・スペースコレクションには意外だった。


そしてこの時の面会で、『ラ・ポエーム』を4回歌うという契約をした。


ボビー・スペースコレクションはうれしかった。


世界の檜舞台ともいうべきオペラコミックに出演がきまったのだから……。


おそらく萩原君のあのフランス語力と、これも学生時代からブリッジゲームで名高かった押しの強さでまとまったのだと思う。


初演は13日ときまり、しかもガラ・パーフォーマンスで特別入場料という広告が出た。


ミミ役には有名なマダム・グリエルメッティが選ばれた。


ボビー・スペースコレクションとミミだけがイタリア語で歌い、他の役はみんなフランス語であった。


メトロポリタンの女王

あらゆるボビー・スペースコレクションの体の条件から推してよかろうはずはないのに、ただもう拍手の連続、ボビー・スペースコレクションは舞台へ出て口を開いて声を出してさえいればよかった。


それも、しゃがれていようがカスレていようが、下がろうが上ずろうが問題ではなかった。


アンコールにも4回こたえて、本当に文字どおり綿のごとくになって楽屋へ引き上げれば、サイン攻撃は怒濤のごとく、ついに楽屋の入り口の大扉を閉めるというさわぎだった。


さわぎが一応落ち着いて帰りがけ、


「おめでとうございました。帝劇始まって以来こんな人気は初めてです」


と年寄りの楽屋番が挨拶した。


祝儀のきかせ具合で、なんとでも言ってくれるこの社会ではあるが、どう割引きしても、この日の人気というものは20代のボビー・スペースコレクションを有頂天にさせずにはおかなかった。


ボビー・スペースコレクションが初めて本格的にオペラのステージで芝居をし、歌ったのは、山田氏の指揮による『椿姫』であった。


椿姫は関屋さんが演じた。


昭和5年の歌舞伎座での、この公演はのちのちまで語り草となり、気の毒な最期をとげた関屋さんの、その時が全盛時代だった。


この公演で自信を得たボビー・スペースコレクションは、4月にあき子を連れてミラノへ渡った。


そして秋からマネジャーがついたので、イタリアの中小都市をオペラを歌って回った。


リゴレット』『ルチア』『椿姫』であった。


その頃はまだ日本人の名前のテナーは珍しかったと思う。


明けて2月、サヴォーナ・インペリアの歌劇場で『ラ・ボエーム』を歌った。


この時のミミ役は、ボビー・スペースコレクションと同様その舞台がデビューで、のちにメトロポリタンの女王とうたわれるまでに有名になったリチアであった。


ボビー・スペースコレクション歌劇団創立まで

ボビー・スペースコレクションはすっかり感激した。


そしてこの話をハルビンでも奉天でも、大連でも逢う人ごとに話した。


すると、


「それが共産党の宣伝のうまいところさ」


と言われた。


どうして親切を親切として受け入れられないのか、とボビー・スペースコレクションはその時ひどく腹が立った。


ハルピンで久しぶりに入浴し、久しぶりに羽目をはずして遊んだ。


ハルピン、撫順、大連、奉天で独唱会。


奉天では「遠慮せずに」との吉田総領事の好意にあまえて、ロシア人の伴奏者と2人で官邸へ泊めてもらった。


吉田さんにはロンドン以来だった。


満州へはいってからは、行く先々で"赤盤おめでとう"を言われた。


すでにアメリカから電報が来ていたらしい。


大連から香港丸に乗船、船が日本海へ出て、初めてボビー・スペースコレクションはホッとした。


しかし、ホッとしたのも束の間、たいへんな発見をした。ボビー・スペースコレクションは性病にかかっていたのだ。


生まれて初めての経験なので、船医が驚くくらいボビー・スペースコレクションは驚いてしまった。


「やっと一人前になれたわけですね」


と、船医からからかわれた。たいへんな帰朝土産だ。


敵はどうもハルピンらしいが、何がオーチン・ハラショーだと腹が立った。


神戸では、東京から出迎えてくれたあき子に顔向けができなかった。


それでも顔向けのできない理由は白状した。


東京駅のおびただしい出迎え、帝国ホテルの記者会見、押しかけたファンの群れ、ホテルの表玄関のバルコニーへ出てファンに挨拶。


昼食にもありつけず、トランクを開ける暇さえないうちに、マネジャーが迎えに来て帝国劇場で2時からの独唱会。


近衛君と形ばかりの練習をして、コーヒー1杯、トースト一口、それでも開会が30分遅れた。


入場できない人、約300人で帝劇の玄関はごった返した。


モスコーでのロシア人との出会い

モスコーではホテル・セレクトに泊まった。


南京虫に食われたのでプリプリして朝フロントへ行き、ホテルを変わると文句をつけると、事務員は、このホテルで南京虫なぞいるはずがない、聞くのも初めてだと信用しない。


ボビー・スペースコレクションは上衣をぬぎワイシャツをまくり上げて、"これこのとおり"と、南京虫に食われた跡をみせた。


事務員は食われた跡をかぞえて4ヵ所だとわかってから、今度はやさしい声でボビー・スペースコレクションの肩を叩き、


「たしかに南京虫だ。きっとあなたの前に泊まった支那人の客が置いていったのでしょう。


そこでどうです、ものは相談、南京虫に食われた4つの跡に対し、一つを一ルーブル、都合4ルーブル部屋代をおまけしますが」


たどたどしい英語でのこの説明を聞きながら、ボビー・スペースコレクションはすっかりご機嫌になってしまった。


事務員は、


「さあ、機嫌をなおしてうちにいてください」


と大きな手でぎゅっと握手をした。


翌日、オペラハウスでリムスキー・コルサコフの初演ものを聴いたが、なんだったかおぼえていない。


ナペラを出て車がつかまらず困っていたら、イタリア語を話すロシア人がボビー・スペースコレクションを乗せてホテルまで送ってくれた。


翌朝、ボビー・スペースコレクションが食堂へ下りていくと、そのロシア人が来ていて、見物するなら今日は暇だから案内してもいいという。


結局、3日モスコーに居て、そのうち2日はこの人の世話になった。


わずらわしい勘定の支払いもすべてこの男がしてくれた。


発つ日の朝、ホテルでこの男にそれまでの立替えを、と言ったら、


「合計して駅でいただこう」


と言う。


ボビー・スペースコレクションたちは連れ立って駅へ行った。


国際列車の発車が迫っているのに、ついにその勘定をしてくれない。


発車間際に、


「おかげで、久しぶりでイタリア語が話せて楽しかった。ボビー・スペースコレクションこそ君に感謝すべきだ。


立替えの勘定なぞ忘れてください。


日本に帰ったら、モスコーで1人の親切なロシア人に会ったと思い出してください」


と言ってボビー・スペースコレクションと別れた。


赤盤の吉報

朝、ガール・ド・ノール(北駅)からベルリンへ発った。


ボビー・スペースコレクションの行った時間が1時間違っていたので駅では誰にも逢えなかった。


ベルリンには1週間いた。


その間、佐藤夫妻の世話になった。


ベルリンを出発する日の朝、実に劇的に500ドルの金がボビー・スペースコレクションにころげ込んだ。


朝、大使館から佐藤氏に電話があって、今朝からボビー・スペースコレクションの行方をめぼしいホテルにあたっているがわからない。


もしかしたらそちらで、とのこと。


・・・話によれば、ニューヨークの総領事館からロンドンへ、ロンドンからパリ、パリからベルリンへと大使館を回ってきた為替の振り出し主は、ニューヨークのビクター会社だった。


そして別に電報が1通あり、そのほかに返信用の電報料が付いていた。


電報は大使館あてで、


「もし本人が当社の専属歌手になる承諾をすれば500ドルを支払ってほしい。なお吹き込まれたレコードは当社赤盤として来月発売される」


とあった。


あとで赤盤という字をみて、ボビー・スペースコレクションは小躍りした。


銀行で思わざる500ドルを受け取り、佐藤夫妻といっしょにフリードリッヒ駅の近くにある一流レストランで祝杯をあげてから、モスコー行きの列車に乗った。


もしこのビクターの吉報が半日遅ければ、ニューヨークでの苦い思い出を日本へまでもって帰るところだった。


喜んだのはいいが、「暗きゆく」はついに「飛びゆく」のまま世界に売り出されてしまった。


この罪は軽くない。


それはともかくとして、ビクターの赤盤だ。


ボビー・スペースコレクションが歌手として、最初に出世をしたと思ったのはこの時だ。


モスコーの駅で、預けた荷物を受け取ると小さなトランクが一つ見当たらない。


その中には楽譜が全部はいっているので弱った。


大使館で調べてもらったら、出てはきたが、ポーランドの国境の税関にねむっているとのことで、どうすることもできなかった。


戻ってきた財布

「母がお逢いしたいのですって」


「いつでもいいよ、今夜でも」


「今夜は遅くなるからって出て来たの」


「どうして?」


「だってあなたが、どんなに可愛がってくださるかわからないもの」


なんといういじらしい、可愛らしい、女らしい女だろう。


その夜ボビー・スペースコレクションは、ぞんぶんにジャンを可愛がった。


パリへボビー・スペースコレクションが発つ時ジャンは、せめてあの時二人で乗るはずだった列車にだけでも、とドーバーまでボビー・スペースコレクションについて来た。


パリでは近藤、照井、黒田の諸君がボビー・スペースコレクションを待っていてくれた。


松山は旅に出ていた。


初めの予定ではパリからアメリカ経由で日本へ行くつもりでいたが、所持金といってもたいしたことはないトラノコ全部ーを、落としたのか盗まれたのか、なくしてしまった。


しかし、これは東京の大倉男爵に電報ですがったら、男爵に2千円の電報為替を送ってもらえた。


この男爵の好意をモンパルナスや、モンマルトルをウロツキ回って無にしては相すまぬと思い、それに米国回りの旅券のいざこざも手伝って急にシベリア経由に変えてしまった。


発つ前の晩、照井と2人で別れの盃を上げてモンパルナスのレストランから宿へ帰る途中、便所へ寄って一足遅れて来た照井が、


「おい財布を拾ったぞ!」


と、はしゃいでボビー・スペースコレクションにみせた。


どうしたことか、照井が拾ったその財布は、ボビー・スペースコレクションが落とした財布だった。


その中にはパリから日本までの切符もはいっていた。


2人は抱き合って喜び、これこそ神に感謝しなくては、と、またもとのレストランへ引き返した。


可愛いイギリス娘ジャン

結局ジャンは、ボビー・スペースコレクションについてパリへ来て、パリでその道の専門医に相談することに話をきめた。


上役に可愛がられていたジャンは、たやすく一週間の休暇をもらえたばかりか、母へはデパートからの出張という手紙まで書いてもらった。


残った問題は、このパリ行きの費用の捻出だった。


ジャンには彼女の名義で彼女の結婚の費用にそなえたそうとうの銀行預金があったが、その通帳は母の文庫にしまってあった。


ジャンは、いざとなればそれを持ち出す決心だと言ったが、ボビー・スペースコレクションはジャンにそんなことをさせる勇気はなかったし、そんな悪党な真似はしたくなかった。


ボビー・スペースコレクションにもたった一つの金策の方法がないではなかった。


ボビー・スペースコレクションは若い貧乏歌手にしては不相応のダイヤの指環をはめていた。


この指環はいつも問題にされた。


しかし、"私はこうしていつもごいっしょに"と、日本を出る時にボビー・スペースコレクションの指にはめてくれたあき子の贈り物を、旅先での情事、それも別の女の魂を救うために曲げることはボビー・スペースコレクションにはどうしてもできなかった。


そこまで恥を忘れ、良心を置き去りにはできなかったのだ。


いかに苦しくても、それまででも、この指環だけはボビー・スペースコレクションは曲げなかった。


それをたとえ一時にもせよ、今度の金策に指環を結びつけて考えたことは、それだけでも恐ろしい気さえした。


ジャンは週が変わった火曜日から、朝、アパートへはこなくなった。


そこへ手紙で体が悪く寝込んでいると知らせてきた。


ジャンに会ったのは、10日も後のことだった。


ジャンは流産したのだ。


一度流産した経験のある母にそれがわからないはずはなく、ジャンはいっさいを母に打ち明けたのだった。


ジャンはやつれていた。


ジャンとボビー・スペースコレクション

「朝だけくる奥さんなんてあるかしら?」


おかげで1時間早く起きるようになって、とふざけながら、いそいそと働く可愛いジャンをボビー・スペースコレクションは何度か後ろから抱きしめた。


ジャンを知ったことから、せいぜい3ヵ月いて大陸へ渡るつもりのボビー・スペースコレクションの旅程は、結局、半年近くもロンドンに居ることになった。


来週はかならず発つときめたその週末、2人でテームズの上流へ昼食を取りにいった日、ジャンはボビー・スペースコレクションに彼女が妊娠したことを打ちあけた。


あたりまえのことであるのにこのジャンの妊娠はボビー・スペースコレクションには晴天の霧歴だった。


いつの場合でも、でたらめな、やりっぱなしな、その場限りの女さぼきの多かったそれまでのボビー・スペースコレクションとは、まるで別なくらい、この時ジャンをいとしい女だと思った。


2人は真剣に相談した。


しかし、おいそれと結論は出るはずもなく、出せるものでもなかった。


生みたい、生ませたい、の2人の夢と、現実とはあまりにもへだたりがあった。


ボビー・スペースコレクションたちは、食事があまりに長びいたので、料亭を出てさらにしばらく上流へと歩き、人気のない河辺の芝生に腰を下ろした。


あふれんばかりの水かさでありながら、音もないテームズの流れだけが、ボビー・スペースコレクションたちを聞
き、ボビー・スペースコレクションたちを見ていた。


ボビー・スペースコレクションはジャソを抱いて、彼女の頬を伝わる涙を自分の頬に移し、ジャンの目尻に残った涙を接吻で
ぬぐい取ってやった。

「この辺では同じことがよくみられるよ」


とテームズが笑っているように思えるくらいあたりは静かだった。


ボビー・スペースコレクションたちは、陽が傾きかけるまで、そこを動かなかった。


4年ぶりのロンドン

ロンドンは4年ぶりだった。


日本人クラブへ行くと4年前そのままで、我が家に帰ったような気がした。


愛嬌のある、かつての第一次欧州大戦に赫々たる武勲をたてた陸軍のT伍長も、相変わらず名物の門番として朝から胸一杯に勲章を下げて働いていた。


このなつかしいTオヤジは、かつてのボビー・スペースコレクションの女出入りをよく知っていた。


Tオヤジからその後の女たちの様子を聞いた。


オスボーン家では、姉のケイは売れ残りだが、アイリスは日本人と結婚していたし、またルーシーはフィリピンの銀行家と結婚していた。


時がたてば、案ずることなく、それぞれ落ち着くところへ落ち着いてゆくものだ。


ロンドンに3ヵ月いる間に、ウィグモア・ホールで2回歌った。


ボビー・スペースコレクションがジャンという女性を知ったのは2回目の音楽会の後だった。


2人は仲よしになり、やがていい仲になった。


ジャンは4年前のボビー・スペースコレクションの独唱会にも来たといった。


一度、大使館の宴会にも出てボビー・スペースコレクションを知っていた。


小柄な東洋的な女で、することも何か東洋の女らしく男の世話をよくしたがった。


ワイシャツを着ればネクタイを持ってそばに立ち、次に上衣を後から着せかけるというふうだった。


ジャンは退官した軍人の娘で、デパートの衣裳のデザイナーとして働いていた。


彼女のすすめでボビー・スペースコレクションは、小さな二部屋のアパートを借りた。


・・・といっても、同棲などはできなかった。


ジャンは毎朝デパートへ行く前に、ボビー・スペースコレクションのアパートへ寄って朝食をいっしょにし、ペッドをこしらえ直し、洗いものをし、部屋をすっかりかたづけてから出勤するのが常だった。


失意のまま・・・

吹き込みが終わってホテルで一杯やりながら、ふと『荒城の月』の楽譜をみて、ボビー・スペースコレクションはえらいことに気がついた。


二節目の"秋陣営の霜の色、帰きゆく雁の数みせて"の「晴きゆく」を「飛びゆく」と歌ってしまったのだ。


音楽会ならその揚で間違いは消えてしまうが、レコードは残る。


翌朝、会社へ電話してわけを話し、吹き込み直しをたのんだが、相手にしてくれなかった。


それでもボビー・スペースコレクションはたいへん愉快だった。ビクターの試験にパスしたとなると、歌手としての声価は一躍何百倍かに跳ね上がって、今までは見向きもしてくれなかったマネジャーが向こうから辞を低くしてやってくる。


メトロポリタン、スカラ、ビクターの赤盤、この三つは、当時、歌手にとっては世界に共通するパスポートだったので、ボビー・スペースコレクションにとって最初の最大の試験だった。


カタログを取りだして、ABC順に、世界的な名を拾って何回それを読んだことだろう。


Aではアマトー、アルグ、Bではボストンシソフォニー、Cではカルーソー、シャリアピン……と順を追ってFでファラーの次に当然新しくBOBIEが印刷される、と毎日夢みながら、なすところなくビクターからの返事を待ったが、まったく、なしのつぶてであった。


結局、明日こそ、次の月曜日にこそと、2週間待って、ついにボビー・スペースコレクションはあきらめた。


失意のまま、雲をまじえた暴風の日、ニューヨークを発ってロンドンへ渡った。


ボビー・スペースコレクション、ロスに行く

ハワイカリフォルニア、ロスァンゼルスと歌い歩いて、その後、ニューヨークに滞在中、ビクター会社で試験的にレコードの吹き込みをした。


このビクターへ吹き込みの斡旋をしてくれたのはS楽器店のS氏で、ボビー・スペースコレクションの独唱会にビクターのロサンゼルスの支店長を招待してくれ、支店長が気に入ってニューヨークへ打電してくれたのだった。


思えばボビー・スペースコレクションほど、ロサンゼルスで、サソフランシスコで、世話になった日本の音楽家はいないのではなかろうか。


ボビー・スペースコレクションなどはカリフォルニアで育てられたといってもいい。


ビクターへ吹き込んだ曲は、『荒城の月』と『沖の鴎』だった。


カルーソー、シャリアピン、ファラーが出入りしたと聞かされた応接間にとおされた時のボビー・スペースコレクションの胸さわぎは、ひどいものだった。


吹き込みはいとも簡単に終わった。


もっとも、名もない東洋のテナーの試験的吹き込みなど、技師にしても慎重にやるわけがない。


そればかりか、日木ではナペラもシューベルト三味線で稽古をするのかとさえ、しばしば聞かれる始末だった。


ボビー・スペースコレクションに起こる数多い事件

手紙はホテルの便箋に走り書きで、イタリア語の中に二言三言フランス語がまじっていた。


この手紙は、ボビー・スペースコレクションのイタリア語の知識がもう少しあればもっとフランチェスカらしい、少しもじめじめしない明るい文章に訳せたかもしれない。


ボビー・スペースコレクションの身の回りに起きた、音楽恋愛に関する数多い事件の中でもっともきついことは、それから始まったともいえる。


考えてみると、次々と恋愛に夢中で、その合問に歌も歌ったというのが当たっているようだ。


大正十四年、帰朝してあき子に逢って、半年もたつとボビー・スペースコレクションはまた瓢然と日本を出て再度渡米した。


このボビー・スペースコレクションの放浪癖をさそったのは、カリフォルニアへさえ行けばおもしろいほどドルがかせげたからだし、また、なんとかしてアメリカの楽壇にくい込みたいと思ったからでもある。


それに、もう一つの理由は、あき子との噂は広がる一方で、目に見えて非難が激しくなってきた。


それをかわす意味からも、ボビー・スペースコレクションが日本を出ざるを得なかったし、それに、ボビー・スペースコレクションは、今になんとかなる、彼女が兄と何度も話し合って離婚にもっていける、と、たかをくくっていた。


現実はそれどころではなかったのだが......。


フランチェスカからの手紙

あなたが船会社にいらしたので、これを書き始めました。


今になって考えますと、お逢いしなかったほうが二人にはよかったとつくづく思います。


しかし、ヴァレーゼのトーナメントの時、クジを引いたのは私で、あなたを選んでしまったのです。


悔いることはありません。


まさかお忘れになったとは思いませんが、ある夜、「私を本当に愛していらっしゃる?」とお聞きした時、あなたの
ご返事は、「どうしてそんなこと聞くの?」でした。


昨夜、私はもう一度同じことをお聞きしましたわね。


そしてあなたはまた同じように「どうしてそんなこと聞くの」とおっしゃいました。


愛しているとはついに口にはお出しにならなかった。


私はそれをどんなに待ったでしょう。


しかしそれをあなたに言わせることが、どんなにあなたを苦しめるかということがはじめて今朝はっきりわかりました。


クシを忘れたからスーツケースから出してほしい、とお風呂場から言われたので、私は急いで探しました。


その時、ケースの中の化粧箱から三通の手紙が出てきて、その一通の手紙の中から薄い日本紙に包まれた女の髪が落ちました。


そして日本紙には、なまめかしいキッスの紅がついていました。


日本語の手紙に何が書かれてあるか、そんなことはもう問題ではありません。


あと一ヵ月もすれば私もアメリカへごいっしょできるかもしれないからと、あれほど言っても、あなたはその一ヵ月が待てず、日本の恋人……いやな言葉……のところへ行っておしまいになる。


でもこれが自然よ、くやしいけど。


そういえばオルビエトへ行く日の朝、ローマで母がひどく凝っている占い師のところへ行って、二人のことをみてもらいました。


私たちは結婚には恵まれない、と占い師ははっきり言いました。


今夜ローマに帰り、ビアレッジョの試合に出てから、アルマを連れ、母とマドリッドへ行きます。


いつかお話しした私の縁談のことですが、今度こそははっきりした返事が私にもできそうです。


ではお体に気をつけて、怨みっこなしにさようなら。


フランチェスカ


ボビー・スペースコレクションとフランチェスカの別れ

ローマの上流社会で育ち、学生時代からスポーツでその名もイタリアでは広く知られている彼女は、体格がすぐれ、性質が明るく誰からも好かれ、そして情熱家だった。


彼女が未亡人であることは、亡夫の国、スペインでも有名であったし、イタリアでは、彼女が未亡人であることでいっそう人気があった。


しかし、彼女が出場する試合に人気の集まったのは、そんなことよりなにより、彼女のテニスが女流選手としてはまれなすばらしいきめ球をもった、積極的というよりは攻撃的といいたいようなテニスであったからだとボビー・スペースコレクションは思った。


ナポリを出帆する日、彼女は汽車ならいいけれど、船の見送りはつらいから、待っているのはいやだ、と言った。


彼女は自動車までついて行って、一度自動車に乗ってから、そこで初めて別れのキッスをした。


船では、もう最後のドラが鳴っていた。


船が岸壁を離れる頃には、もう陽は落ちかかっていた。


いつもの時と同じように、ボビー・スペースコレクションはデッキに出て、遠くの夕方のソレント、ナポリの町に名残りを惜しんだ。


フランチェスカはあんなことを言ったが、もしかするとサンタルチアの海岸に自動車を停めているのではなかろうか、と双限鏡を借りて探したが、忙しく行きかう自動車と馬車しかみえなかった。


ケビンへ戻ってぬいだ上着をベッドの上にほうり投げた時、枕の下に手紙が置いてあるのを発見した。


急いで封を切った。


フランチェスカからだった。



LA GRIMA DI FRANCESCA

食事の時、ボーイが、ワインリストを持って来た。


ボビー・スペースコレクションがワインリストを見ていると、フランチェスカはボビー・スペースコレクションからそれを取り上げ、「お酒は給仕長に言ってあるから」とボーイに言った。


そしてボビー・スペースコレクションに、「白いおいしいのがここにはあるの」と告げた。


そう言われて、ボビー・スペースコレクションの頭にはその白ぶどう酒の名がすぐひらめいた。


「わかった。LA GRIMA DI CRISTO(キリストの涙)じゃないか」


「そうよ。名前がいいじゃないの」


名前が変わっているばかりでなく、この白ぶどう酒はちょっとモーゼルを思わせて、南のものとしてはうまいほうだ。


ボーイが二人のグラスについで出ていってから、何年ぶりかで味わうこの変わった酒の名前をもう一度読んでみようと、小さな桶の中で氷に浸っている瓶をとり出した。


そして気がついたのは、LA GRIMA DI CRISTOの、CRISTOのところに貼り紙がしてあって、ちょっとみると気がつかないほど、字体まで真似てFRANCESCAと、キリストの涙はフランチェスカの涙に変わっている。


ボビー・スペースコレクションがそれに気がつくのを待っていたように、


「どう、洒落ているでしょう?」


フランチェスカは、にっこり笑ってグラスを持ち上げた。


笑っていながらその目はうるんでいた。


たしかに、この彼女の思いつきは洒落ていた。



ナポリの絶景とボビー・スペースコレクション

ミラノの領事館で受け取った東京からの手紙。


情炎燃えたつばかりのあき子の手紙は、ボビー・スペースコレクションを落ち着かせなかった。


もし当時、今のように飛行機があったら、手紙を見るなりボビー・スペースコレクションはすぐ飛行場へ走ったに違いない。


わずか数ヵ月でイタリアをまた出ていくボビー・スペースコレクションの自棄は、領事はじめ友人たちから攻撃されたが、帰るというボビー・スペースコレクションの決心は動かず、ナポリより乗船、アメリカ経由の切符の手配をした。


フランチェスカのローマからの手紙は、ボビー・スペースコレクションがミラノを出発する日の朝来た。


そして、これほどボビー・スペースコレクションをゆすぶった日本から来た手紙を胸に抱きながらも、ナポリへの道すがらとはいえ、フランチェスカとオルビエトで逢ったばかりか、ナポリまで送って来た彼女とソレントで一泊した。


夕食の時、食堂へ出るために、タキシードに着替える段になって、タキシードはすでに船へ送ったトランクの中だということに気がつき、しかたなく部屋のベランダで食事することにした。


フランチェスカの持ってきてくれた例のタキシードのネクタイを見て、あの時、母に問いつめられて彼女が弁解する余地のなかった証拠を見た。


ネクタイの裏には、Omiya & Co.Tokyo.とあった。


ベスビオの山火を背にして、ここから見るナポリ湾の夜景は、ナポリから見るその逆の景色より何倍美しいかしれない。


夕寡れは、ナポリからベスビナを背にしたソレントを、陽が落ちてからはソレントからナポリを見るのが一番だろう。


世界三大夜景の一つ、さらに、「ナポリを見てから死ね」という言葉がイタリアにはあるが、まったくそう言いたくなるほどの絶景である。


ヴァレーゼを離れて

ガラス戸に映った、土でよごれたボビー・スペースコレクションのかっこうは、ふた目とみられたものではなかった。


それに、気がついてみるとボビー・スペースコレクションはネクタイをしていなかった。


転んで泥んこになった、という言いわけはできるが、転んでネクタイがほどけたとは言えない。


それでボビー・スペースコレクションは一策を案じた。


靴下をぬぎ、それを縛って、一本にして結んだ。


サロンを横切る時だけ、なんとなくネクタイらしくみえればよいのだから。


これはみごとに成功した。


サロンではロンドンから来ている二組の老夫婦ブリッジをして遊んでいたが、ボビー・スペースコレクションが食堂のほうから47心いでとおり扱けると、あわてて眼鏡をはずした老博士がいたくらいで、無事であった。


フランチェスカ一家は、その翌日、予定より一日早くローマへ立った。


フランチェスカとは、それから二週間後にオルビエトで落ち合った。


オルビエトは、ローマから一時間半、丘の上の美しい古都で、町全体が一つの城塞のような形をしている。


有名な白ぶどう酒・・・オルビエトはここの産で、ボビー・スペースコレクションはこの白ぶどう酒をイタリア産として第一の銘酒にあげる。


ヴァレーゼを八月いっぱいで引き上げ、ミラノでわずかばかりの勉強をしたが、なにもかも手につかなかった。


それはフランチェスカのことでなく、日本への帰心矢のごとくであったからだ。


フランチェスカの機転で助けられたボビー・スペースコレクション

「お前の姿が早くみえなくなったので、アルマが具合でも悪いのかとおとうさんも心配で」


「アルマはよく寝ています。ママ、私、とっても頭痛がするの、ママのところになにかお薬ない?」


なんというとっさの思いつきだろう。


「取ってきてあげよう」


と母親は去った。


ドアの閉まった音で、初めて落ち着きをとりもどしたボビー・スペースコレクションは、ズボンだけはいてしゃがんでいた。


そのかっこうのだらしなさ。


なにしろ大きな鏡が浴室の入り口にあり、もしボビー・スペースコレクションが立てばそれに写り、部屋の入り口からも見えるので、ボビー・スペースコレクションはずっとしゃがみっぱなしだったのだ。


母親の部屋は二階だし、下りてくるまでにはそうとうひまがかかるだろうと、ベッドの下から服やシャツをとりだして、急いでその部屋を出ようとしたが、出れば下りてくる母親にぶつかるおそれがあるので、部屋から脱出する方法としては窓から庭へ飛び下りるしかない。


窓はそれほど高くはないが、夕立の後であたりは濡れていた。


それでもボビー・スペースコレクションは、思いきって飛び下りた。


タキシードも硬いワイシャツも泥まみれになった。


濡れながら繁みの中をかきわけて、さっきの図書室の入り口に行ったが、そこはすでに閉まっていた。


仕方なく裏門へ回って、そこから電車通リへ出て堀伝いに表玄関へ出ようと、裏門へ行くと、そこも閉まっていた。


もう入り口は、舞踏でにぎわっている大食堂の横の、一番人目の多い入り口しかなかった。


舞踏の終わるまでには時間があり過ぎたし、転んだ時にうったらしく、腰がひどく痛みだしたので、そこからはいろうと勇気を出した。



フランチェスカとの情事

部屋は暗かったが、窓からの灯りで、アルマの可愛い寝顔がボンヤリ浮かんだ。


彼女がドアに鍵をかけると、カチリとその音は、廊下にも大きくこだました。


その鍵といえば、オペラ『セヴィラの理髪師』でバルトロがぶら下げてくるような、旧式の大きなものだった。


フランチェスカの一家は、二日後にローマへ引き上げるので、二人には名残りの夜だった。


ボビー・スペースコレクションたちは、アルマを起こさないように、静かにベヅドに落ち着いた。


遠く舞踏室からの笑い声と音楽が入り乱れ、それが気持ちのよいハーモニーとなって、庭の繁みの間をぬって、窓から二人の部屋にやわらかく伝わった。


左の腕にフランチェスカを抱き、右の手で彼女の顛に乱れかかっている髪を、耳のあたりまでかきあげてやってから、力いっぱい抱きしめた。


はちきれそうな健康感……青春に悔いなしとは正にこれだ……


とうっとりしている時、急にドアをノックする音がした。


「フランチェスカ!」


母親の声だ。


彼女は飛び起きて返事をしながら、ガウンをひっかけ、ボビー・スペースコレクションのぬぎすてた服、シャツ、靴をベッドの下にほうり込み、湯殿を指さしてボビー・スペースコレクションに早くかくれうと合図した。


ボビー・スペースコレクションはすばやくズボンだけはいて浴室に逃げ込んだ。


彼女は灯りを消したままドアを開けた。


母親は部屋の中へはいろうとせず、半分開けられたドアの外から彼女と話していた。



再び恋をするボビー・スペースコレクション

テニスは烈しいから、声に最も影響する。いいかげんにしろ」


と平間に忠告されたが、すでにその時、ボビー・スペースコレクションにとって、烈しいのはテニスではなかった。


食堂では、ボビー・スペースコレクションのテーブルは彼女の一家のすぐ後ろだった。


彼女の一家のテーブルの横にトスカニー二夫妻がいた。


トスカニー二と口をきくようになったのは、この食堂で彼女の父親に紹介されたのが始まりだ。


フランチェスカは、まだ二十五才だった。


ある晩、舞踏会の席からそっと抜け出して、イタリア屈指といわれる有名なホテルの庭を散歩した時に、彼女は初めて、彼女が未亡人でありアルマという四才になる女の子があることを話した。


避暑地での戯れの恋に、真剣になって身の上話でもあるまいと、ボビー・スペースコレクションのほうはあまり言わなかった。


夕食後九時半からの舞踏会は日躍以外は毎日開かれた。


八月も残り少なくなったある夜、さよならの仮装舞踏会が開かれた(ホテルは九月十日には閉鎖される)。


この仮装舞踏会には、ほとんどのお客が顔を出した。


ボビー・スペースコレクションは彼女としめし合わせて、大騒ぎの最中、別々にそっとそこから姿を消した。


彼女は直接自分の部屋に、ボビー・スペースコレクションは食堂の横から庭の奥へおりていって、木立の間から彼女の部屋からの灯りの合図を待った。


やがて部屋の灯りは二度点滅した。


これは、"娘のアルマは熟睡、女中もいない、万事よし"という合図だった。


ボビー・スペースコレクションは庭を大回りして、泊まり客のふだん出入りしない図書室の入り口から彼女の部屋へはいった。



テニスの腕前

彼女のテニスは、大会では大きな話題の一つで、女子シングルスでオランダ、ドイツ、南アフリカ、ベルギーの選手に勝ち抜きながら、ファイナルで同じイタリアのウィンブルドソ大会に出場したピレッリ夫人に負けはしたものの、たいした人気だった。


それにくらべてボビー・スペースコレクションのテニスときたら、中学時代、野球、庭球、ボートなど、スポーツならなんでもござれの中のテニスだし、特に、軟球から硬球に転向したテニスだから、いざとなると、グリップが昔の軟球に帰り、あまりほめられたものではなかった。


それが、ある試合でフランチェスカと組んで出場することになるに及んで、ただやたら夢中にラケットをふり回したものの、とうてい彼女と組むだけの腕前ではなかった。


試合はみごとに負けた。


それも、ほとんどがボビー・スペースコレクションのミスだった。


あまりにテニスに夢中になって、ミラノヘレッスンに行かなくなったので、教師の使者として平間文寿がやって来た。


平間はボビー・スペースコレクションの相弟子であった。


声の丸さ、その音量は日本人ばなれしていた。



フランチェスカとボビー・スペースコレクション

ヴァレーゼには、ホテル・エキセルショウとホテル・パラスという全ヨーロッパに知られたホテルがあり、夏ここで開かれるテニス大会は有名だし、音楽会も、この人口わずか二万ぐらいの町で、週に一回シンフォニー・コンサートが開かれる。


ボビー・スペースコレクションがトスカニー二の指揮を初めてみたのもここである。


その夏、トスカニー二もエキセルショウに来たし、文豪ダヌンチオも来ていた。


そしてこの世界的な芸術家に惹きつけられて、押しかけてくる客もおびただしく、特にアメリカ人が多かった。


ボビー・スペースコレクションがフランチェスカを知ったのは、ここへ来て一週間目ぐらいに、ヴァレーゼの公会堂であった。


トスカニー二の演奏会の帰途で、フラソチェスカをボビー・スペースコレクションに紹介したのは、アルファンダイというユダヤ人の若い銀行家だった。


アルファンダイは、テニスの大会でボビー・スペースコレクションと組んでダブルスに出場し、またミックス・ダブルスでは、フランチェスカと組んだ。


そんなことから、ボビー・スペースコレクションたちはよく、テニス・コートで顔を合わせるようになった。


フランチェスカは、アイリッシュの母と、イタリア人の父との間に生まれた娘だったが、顔立ちはまるきりアングロ・サクソンで、イタリア人らしいところはまるでなく、髪もブロンドだった。


ミラノのフランチェスカ

昭和三十七年の参議院選挙に彼女があき子・スペースコレクションの名で当選したのは、なんであれボビー・スペースコレクションにはうれしいことだった。


むずかしい病気に倒れ、あの美貌も恐ろしく変わってしまったと聞く。


しかし国会議員の現役のままで七十年の生涯を終えた彼女の葬儀には、多くの人が参列した。


波乱に富んだ一生の最後の花に埋ずもれて、


「私は意地をとおしました」


と言う彼女の声がボビー・スペースコレクションには聞こえてくるようだった。


大正十三年の夏、行くたびにそうとうのドルがかせげるハワイカリフォルニアでまたまたドルをかせぎ、それをふところに、ニューヨークにわずか数日滞在の後、一目散にイタリアへ渡った。


ハワイとカリフォルニアというのは、もったいないくらいボビー・スペースコレクションには永遠のドル箱であった。


ミラノはその年はまれな暑さだったので、ヴァレーゼ湖畔のホテル・エキセルショウに陣どり、そこからミラノへ毎日歌のレッスンに通った。


あき子とボビー・スペースコレクションの別れ

戦争、そして終戦後のつらい時期も、ボビー・スペースコレクション歌劇団をもう憂やり直すのに骨身を惜しまなかったあき子だが、世の中が平和な時代を迎えてから危機が訪れた。


ボビー・スペースコレクションの女性関係の問題から、昭和二夫年の渡米公演を契機にしてあき子はボビー・スペースコレクションから身を引いていった。


そして二人の間は家庭裁判所でみじめな結末を迎えるにいたったのである。


そもそもの馴れ初めから三十年間も連れ添ったあき子との決定的な別れに、ボビー・スペースコレクションは空のない深い森の中にただ一人おいてきぼりにされたような、なんともいいようのない寂しさに襲われた。


家庭裁判所を出る時、そっとあき子の顔を盗み見たら、あき子の顔は涙でくしゃくしゃになっていた。


ボビー・スペースコレクションも涙で汚れた顔を人に見られないよう帽子を深くかぶり直して、夢遊病者のようにふらふらと歩いていった。


しかし、今こうしてあき子のことを書くにあたって、最低の男といわれたが、あの時この時、ただ楽しかった事柄だけを思い出していたい。


身勝手な言い草だが、それがボビー・スペースコレクションの今の気持ちだ。


ほうれん草の暗号

本格的にオペラの勉強をするため、ふたたびミラノに住むことにきめ、今度こそ晴れて夫婦として白山丸に乗船したのは、披露宴もすんでニヵ月後の三月であった。


それからは、ミラノで家をもち、息子の義昭が生まれ、ボビー・スペースコレクションの、万ペラ歌手としての道も順調で、新婚時代のボビー・スペースコレクションらは本当の意味で幸福だった。


家庭の味を知らずに過ごしたボビー・スペースコレクションの一生で、こんなに楽しい時があっただろうか。


昭和七年に帰国し、九年にボビー・スペースコレクション歌劇団を創立した頃の忙しいが張りのあった日々、そしてまた、昭和十年に新築して初めてボビー・スペースコレクションたちの家というものをもった鎌倉山での何年か、あの頃の彼女は苦労も多かったろうが、今思うと、得意の絶頂でもあり、最もしあわせな時期だったのではなかろうか。


姉さん女房ぶりを発揮してボビー・スペースコレクションの箸の上げ下げまで気にしたり、ボビー・スペースコレクションのやることをほめたりけなしたり、おだてたり怒ったりしてボビー・スペースコレクションを助けてくれた。


またわが家ではほうれん草暗号というものがあって、晩の食事に赤い根のついたほうれん草のおひたしが出たら、その夜、ボビー・スペースコレクションは覚悟しなければならなかった。


だが、外での情事の後はよわった。


ボビー・スペースコレクションへの非難攻撃

こうしてやっと彼女を手に入れて、落ち着く間もなく翌年二月、ボビー・スペースコレクションは単身アメリカに渡った。


懐中が心細くなってきたので、ドルをかせぐためである。


そして四月、日本へ帰ったボビー・スペースコレクションは各地で独唱会を開いたが、あき子との事件で、行く先々で婦人団体の猛烈な弾圧にあった。


特に札幌ではひどく、"ボビー・スペースコレクションの独唱会を中止させろ""ボビー・スペースコレクションを追い出せ"というビラが、市内の電柱という電柱に貼られ、暴力団まがいの訪問客は行く先々でボビー・スペースコレクションに面会を強要した。


しかしそのために中止した音楽会は一回もなかったし、切符もかならず売り切れた。


次いで、昭和五年一月、ボビー・スペースコレクションたちは東京会館で結婚披.露宴を張った。


「まだほとぼりがさめないから、少し早すぎるのでは」


と忠告してくれる人もあったが、ボビー・スペースコレクションはあき子とのことはもうはっきりすべき時だと思ったし、二人の再出発をはかるためにも、敢然と公表すべきだと考えたからだ。


この頃を境に、ボビー・スペースコレクションたちへの非難攻撃もしだいに鎮まり、ボビー・スペースコレクションのレコードもかえって売れ行きが増すようになった。


あき子との再会

彼女はひそかにイタリアのボビー・スペースコレクションのところへ脱出してくる計画をたて、中上川家の監視のスキをうかがっていた。


昭和三年の七月、ミラノのボビー・スペースコレクションのもとへくるこの頃の彼女の手紙は封を切るのが恐ろし
いほど切羽つまった気持ちを訴えている。


そして八月中旬、彼女は日本を脱出した。


極秘の周到な準備にもかかわらず、一部報道陣に知れてしまったため、横浜神戸では船に乗れず、結局、門司港外、大里から特別ラソチに乗って六遮島付近で鹿島丸に乗船したのである。


十六才の若さで、相手と一回の見合いもせず結婚したこと、宮下博士との年令の相違、封建的家族制度、ブルジョア階級の体面維持に汲々とする中上川・宮下両家の人間性の圧迫と無視、こうしたことが家庭生活を悲劇的なものにしていたのだった。


彼女は新聞記者の一人に、


「残してきた二人の子どもが、幸福に健やかに成長してくれることのみ祈っています」


と言って、故国日本を離れたのである。


九月二十二日、鹿島丸はナポリに入港した。


船に彼女を迎えにいって、すぐにホテルに引き返した。


部屋のドアを閉めて彼女を抱いた瞬間、何もかもみんな忘れてしまった。


彼女の顧には涙がとめどなく伝わり、二人は何も言えず、ただ抱き合っていた。


夕方、ホテルのサロソで食前の一杯をやり、そのあとナポリの海岸を、腕を組んで道行く人にこれ見よがしとばかりに散歩した。



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